君は若貴フィーバーを知っているか?
今から30年ほど前、相撲界は空前の相撲ブームに沸いておりました。
そう、あの「若貴フィーバー」です。
昨今も「相撲人気」は盛り上がりを見せておりますが、当時の大相撲人気は現在よりも極端に加熱しており、様々な相撲雑誌の創刊はもちろん、女性誌に力士が登場したり、雑誌の表紙になるようなこともありました。
「現在の相撲人気と平成初期の相撲人気はどこが違うのか?」
最近相撲に興味を持った方から時々頂く質問ですが、私個人の見解として答えると、、、
現在の相撲人気は「暗黒時代から脱却すべく、相撲協会や多くの力士一人ひとりの努力(ファンサービス)の結晶」であり、一方の平成初期の相撲人気は「魅力的な個性派力士が多くいるものの、若貴という絶対的な主役がおり、作り上げられたもの」だったということだと思います。
また現在の相撲人気が、根強い相撲ファン達が中心となって人気を支えているとすると、当時の相撲人気は、マスコミ主導で作り上げられた一過性のファンが比較的多かったということでしょうか?
かなり話が逸れてしまいましたが、とにかく当時の相撲人気は物凄く、そんな「平成の大相撲人気」のど真ん中にいたのが若乃花と貴乃花であり、そのムーブメントこそが「若貴フィーバー」と呼ばれていました。
しかしそんな相撲人気の中心にいた二人も、現在は共に相撲協会から距離を置くだけでなく、喧嘩別れのような形になってしまっています。
入門当時あんなに仲の良かった兄弟に、なぜここまで大きな亀裂が入ってしまったのでしょうか?
今回は、若貴がなぜこんなに仲が悪くなってしまったのか?という観点から、貴乃花と若乃花の関係の歴史を見ていきたいと思います。
いつでも一緒だった仲良し兄弟
若乃花と貴乃花が、実父である初代貴ノ花の運営する「藤島部屋」に入門したのは、弟である貴花田が中学を卒業した直後の昭和63年春場所。
曙や魁皇(浅香山親方)など、同期から実に10人以上の関取が輩出されており、今も相撲界で語り草となっている「花の63年組」と呼ばれた初土俵でした。
幼い頃から父に憧れ、いずれは力士を目指していた弟貴花田に比べ、兄若花田はプロになる気持ちがそれほど強かったわけではなく、当時まだまだ理不尽の多い相撲界において、無口で不器用な弟を守るべくしての入門だったとも言われています。
共に順調に出世をして関取に昇進しましたが、関取昇進後も、マスコミに多くを語らないマスコミ泣かせの貴花田の分を兄若花田がカバーする姿と、兄の存在を頼もしく慕い共に戦う姿に日本中が羨む、まさに理想の兄弟でした。
平成7年九州場所兄弟決戦
二人が番付を駆け上がり実力を付ければ付けるほど、相撲ファン達の間で期待が高まったのが「夢の兄弟対決」の実現です。
しかし、本場所の土俵で絶対に対戦が組まれない条件である「同部屋対決」と「兄弟対決」を共に満たしている、同部屋の兄弟力士(関取)若貴の真剣勝負を唯一実現させるための方法は、「本場所での優勝決定戦」しかありませんでした。
平成4年初場所、一足早く史上最年少優勝を果たした貴花田に続き、平成5年に入ると若花田も初優勝を飾り、若貴共に大関昇進を果たしました。
優勝戦線に残ることも増えた二人に、否が応でも大きな期待が寄せられ、平成5年名古屋場所の「あわや」という瞬間を超え、ついに平成7年九州場所千秋楽でその対戦は実現。12勝3敗同士の横綱貴乃花と、大関若乃花が優勝決定戦を行いました。
初場所に新横綱として優勝をし、直前の秋場所まで3連覇中の横綱貴乃花と、大関昇進は果たしたものの、初優勝から2年半優勝のない若乃花。
もしも優勝決定戦になったらどうか?
下馬評では圧倒的に貴乃花の勝利が予想されていましたが。。。。
結果は若乃花の勝利。
兄弟対決で勝利を収め、自身2度目の優勝を飾った勝者若乃花も「もうやりたくない」と答えるなど「非情で後味の悪い優勝決定戦」でした。
そしてこの一番こそが、これまで強い絆で結ばれていた兄弟の絆に、わずかな距離が生まれるきっかけになったとも言われています。
真実は分かりませんが、師匠から暗に負けるような指示があり、これまで信じていた貴乃花の相撲道に迷いが生じた。。。一部ではそんな風にも言われています。
すれ違う「横綱道」
兄弟による優勝決定戦の件に関しては、後に「不仲の要因」と言われた出来事であり、決定戦後の二人の関係に特に変化はありませんでした。
「若貴の不仲」が表ざたになったのは、記憶にある方もいると思いますが、あの「謎の整体師」による洗脳事件からであり、ちょうど若乃花が第66代横綱に昇進した頃のタイミングでした。
この事件を一言で言うと・・・
「貴乃花には世話になっている整体師がおり、この頃は周囲の忠告に耳を貸さずその整体師の言う事しか聞かなくなってしまい、堪り兼ねた師匠が「貴乃花は洗脳されている」と発言した事件です」
平成10年夏。苦労して横綱をつかみ取ったお兄ちゃんと、傍らにいる師匠とおかみさん。多くの相撲ファンの念願だった兄弟横綱の実現。祝福のコメントの嵐。
そんな中、弟で先輩横綱の貴乃花だけは違いました。
「若乃花の相撲には基礎がない」「兄弟でも譲れないものがある」
当時の世論はどちらかと言うと、マスコミへのコメント受けの良い若乃花を「善」としたものが多く、 まさに水を差すかのようなコメントや態度を取る貴乃花に対しては先の親方発言も手伝い、「洗脳されて今は異常になっている」というような報道がなされていました。
しかし、何も洗脳されていたわけではなく、これこそが貴乃花でした(今でこそ多くの方も納得すると思いますが)。
若乃花が横綱昇進した平成10年の頃、貴乃花はスランプに陥っていた時期で、平成6年九州場所後に横綱昇進を果たし、平成7年~平成9年の18場所(休場1回)で優勝11回、優勝同点4回、準優勝2回とほぼ完璧な内容を残した3年間に比べて、内臓疾患や怪我などに見舞われなかなか結果が伴わない時期でした。
双葉山の様な理想の横綱を目指していた当時の貴乃花にとって、今までとは違うやり方が必要になってきた中で、手本となる存在がおらず、藁をも掴みたい状況の中現れたのが例の人物だったのかもしれません。
対して若乃花が発した 、「もっと基礎をしっかりやらないと」「僕はエンターテナーなんで」 というコメントは、当時「悪い弟」に対して「善い兄」が大人の対応をしているかのような報道のされ方でしたが、その真意は弟の発言を笑いにに変えるための優しさだったのかもしれません。
その後、何度か歩み寄る姿勢を見せた時期もありましたが、共に二人で歩んできた相撲道が、別々の横綱道に分かれたこの時こそ、「若貴が決別した瞬間」だったように思えます。
引退と二子山部屋継承
一度は離れた二人でしたが、その後は親方の仲裁もあり何とか和解。若乃花は2000年春場所、貴乃花は2003年初場所にそれぞれ引退し、若貴時代は終わりを告げました。
若乃花が自身の断髪式で貴乃花が鋏を入れた瞬間に涙したことや、貴乃花引退報道の際、声を詰まらせたことを覚えているファンも多く、それらの光景を見て、再び仲の良い若貴に目を細める相撲ファンもいたことでしょう。
しかし今振り返ってみると、和解した後も貴乃花のコメントや言動はどこかよそよそしく他人行儀であり、当初のわだかまりはずっと残っていたような印象は受けます。
再びそれが表ざたになったのは二子山親方急逝の際。
二人が育った「二子山部屋」の名前が「貴乃花部屋」に変わった後、再び兄弟が並ぶことは今日まで実現していません。
恐らく貴乃花の中で決定的だったのは、若乃花が相撲界を去ったことではないでしょうか?
「相撲=人生」・「部屋を守ることが使命」そう信じている貴乃花と、「外の世界を知る必要もある」・「相撲だけが全てではない」と考える若乃花。
新弟子時代二人で場所に向かった、弟想いの兄と兄が好きな弟でしたが、相撲界で様々な経験を積み、頂点まで昇った二人にとって、価値観が異なってしまうのは当然だったのかもしれません。
若乃花引退時「目と目が合えば分かりあえる関係」というコメントを貴乃花が残しました。
相撲界において最もつらい時期を共に歩んだ二人。同期生であり真の兄弟。
それはいつまでも変わりません。
いつの日か、どんな形でも良いので、若貴が再び相撲界に関わってくれることを願う相撲ファンは沢山いるはずです。