相撲の街と言えばどこ?-蔵前国技館を偲ぶ-

ようやく安住の地「蔵前国技館」

以前の記事でもご紹介しましたが、昭和20年の敗戦後、旧両国国技館が占領軍に接収された為、相撲協会は本場所の開催地を、明治神宮や後楽園球場、浜町などに移しながら渡り鳥のように開催してきました。

 

旧両国国技館についてはこちらをお読みください。↓↓

 

 

そんな相撲協会が、復興を目指す大相撲のフランチャイズの地として選んだのが「蔵前」であり、安住の地として建設されたのが、オールドファンが今も懐かしむ「蔵前国技館」でした。

今回は、昭和25年1月(1950)に仮設国技館が立って以降、昭和59年秋場所までの約35年間、大相撲の復興を見守ってきた大相撲の聖地「蔵前国技館」についてご紹介いたします。

谷風雷電も活躍した勧進大相撲の地「蔵前」

蔵前は、かつて国技館があった為に「相撲の地」と思っている方もいらっしゃると思いますが、実は江戸時代から相撲とは深い縁のある街で、蔵前駅すぐにある蔵前神社では、江戸時代に計22回もの勧進大相撲が行われ、江戸時代の名横綱谷風や、大相撲史上最強の力士と言われた、あの雷電もこの地で相撲を取っています。

江戸時代の勧進大相撲は寺社の境内で行われるのが基本的だったので、蔵前神社はもちろん、回向院、深川八幡、湯島などでも行われたそうですが、1833年から回向院での開催がメインとなり、旧国技館が建設されるまで勧進大相撲の興行場所は回向院に定められました。

敗戦後、安住の地を失った相撲協会にとって、「少しでも相撲に縁のある地で」という想いも蔵前を選んだ理由にあるかもしれませんが、「蔵前国技館」の建設は蔵前の人々にとってみれば、江戸時代に奪われた「大相撲のメッカ」という呼び名を、再び我が街に取り戻した歓喜に似た思いがあったかもしれません。

情緒あふれる蔵前国技館

約4年間の仮設国技館時代を経て、昭和29年9月場所正式に蔵前国技館が完成し、大相撲蔵前国技館時代がスタートします(落成時の三段構えが「千代の山-鏡里」という辺りに遠い時代を感じます)。

蔵前国技館は、旧国技館時代にはなかった力士幟が復活し、純和風の外観も手伝って一層相撲情緒あふれる建物となっていました。また、現在国技館名物になっている焼き鳥ですが、地下工場でオートメーション化される前の蔵前国技館時代は、1Fで炭火を使って焼いていたそうで、その匂いはふれ太鼓と共に蔵前の街に場所の開始を知らせる名物の一つでした。

敗戦後、双葉山引退もあり衰退していた大相撲人気でしたが、蔵前国技館が完成する直前の昭和28年9月場所からスタートした大相撲のテレビ放送と、同じ頃に始まった栃若時代によって、再びその人気を取り戻しました。

その後「柏鵬時代」「北玉時代」「輪湖時代」次々入れ替わる主役たちと、その時代を見つめて来た蔵前国技館でしたが、昭和59年にその役目を終え、川向こうの両国に再び大相撲は戻って行きました。

蔵前時代あってこその大相撲

現在はもちろんですが、過去にも多くの相撲部屋が存在、回向院や旧国技館、そして現在の国技館と本場所の会場となった場所も長く両国に存在しています。

また、大相撲の歴史に残る様々なものや相撲関連のお店、ちゃんこ屋さんなどもあり、両国は大相撲の街として広く世に知られています。

両国か?蔵前か?という話題になった場合、様々な要因から「両国こそが大相撲の街だ」という声が多く上がってくる可能性もあります。

しかし、一時は存続さえ危ぶまれた日本文化である大相撲が、蔵前という大相撲所縁の土地で再び蘇り、そして輝きを取り戻し両国に返したことは事実です。

役割を終えた蔵前国技館は取り壊され、現在は東京都の下水道事務所と「蔵前水の館」になっています。

 

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