横綱になれなかった最強力士たち
大相撲の世界において「横綱」というのは単なる最高位、強さだけでなく、立ち居振る舞いなど様々な面で要求をされる特別な地位だということは、これまで何度もここでお話してきました。
入門する多くの力士たちが憧れとして思い描くのが、大相撲の頂点に立つ「横綱」という存在です。しかし現実には、ほとんどの力士が入門後まもなく、その頂があまりにも遠く、そして大きすぎることに気づかされます。やがて「横綱」という言葉を口にすることすらなくなり、目の前の一番、目の前の番付、そして一つでも上の地位を目指して土俵に立ち続けることになるのです。
しかし、そんな土俵人生の中で、あと一歩、ほんの紙一重のところまで「横綱」に迫りながら、その頂に届かなかった力士たちもいます。
今回は、実力を持ちながらも、タイミングや周囲との兼ね合い、あと一歩のあと一勝が足りず、横綱になれなかった“最強力士たち”を振り返り、横綱という地位の重さとそして残酷さについて考えてみたいと思います。
※その前に、「横綱の昇進条件」について知らない方は、昔の記事ですが、ぜひこちらをご覧ください。
史上最強の大関魁皇
横綱にあと一歩届かないと言うと、それはイコール「最強の大関」ということになると思いますが、「最強の大関」と聞いて、多くの相撲ファン達が最初に挙げるべき存在は、元大関・魁皇(浅香山親方)でしょう。
通算勝利数1047勝(歴代2位)、幕内優勝5回(大関以下では歴代1位)、大関在位65場所(歴代1位タイ)。
これらの数字は、横綱経験者達を含めても歴代屈指の記録であり、「数字だけ見れば横綱以上」と言っても過言ではありません。特に大関として10年以上第一線に立ち続けた安定感や体力は、まさに横綱級の実力でした。
しかしそれでも魁皇は横綱にはなれませんでした。その最大の理由は、横綱昇進に必要な“決定打”を欠いたことになるでしょう。優勝はしても連続性がなく、年間を通して見れば強いものの、「今この二場所で大勝ちする」という局面で結果を残せませんでした。
また、時代的な側面も大きかったと思います。全盛期、魁皇は巨大戦力であった「二子山勢」や「武蔵川勢」との全取組があり、その後も朝青龍との対戦など、時代が彼を拒んだようないところもあります。
しかし、平成16年九州場所において朝青龍を破った時のあの大歓声こそが、彼が横綱にふさわしい実力者であったことを物語っていました。
エリートと叩き上げ同級生
次に取り上げたいのが、昭和51年組の同級生元大関・千代大海(九重親方)と元大関・栃東(玉ノ井親方)です。
この二人は九州のヤンキー少年として入門→たたき上げの力士として大関を掴んだ千代大海と、名関脇を父に持ち幼少期から相撲に触れ→高校横綱として入門した栃東と、まったくの好対照の二人です。
千代大海は、全盛期の突き押し相撲の破壊力は凄まじく、一方的な一番や鮮やかな引き技という取り口で優勝3回という実績が示す通り、爆発力という点では横綱以上と評価する声も多くあります。
しかし、千代大海が横綱に届かなかった理由もまた明確で、それは突き押し相撲にある波の大きさでした。勝つときは誰にも止められない一方で、一度歯車が狂うと連敗を重ねる。その不安定さは、横綱として求められる「常に勝ち続ける姿」とは相容れないものでした。
加えて、豪快な突き押しゆえの故障の多さも、彼の土俵人生において、安定した成績(というよりも出場)を拒みました。結果的に昇進のチャンスを遠ざけた要因と言えるでしょう。横綱になるには、強さだけでなく、身体を万全に保つこともまた必要なのです。
千代大海と並ぶいわゆる「ゴーイチ組」の同級生として同じ時代を支えた栃東。まったく異なる相撲人生を歩んだ存在でありますが、彼も千代大海同様幕内最高優勝は3回を飾っています。
栃東の最大の武器は、相撲の完成度。立合い、差し身、体の運び、土俵際の判断力。そのすべてが高い水準でまとまっており、派手さこそないものの、「欠点の少ない大関」で、2000年初頭モンゴル勢と互角に戦えた唯一の力士といっても過言ではありませんでした。
そんな栃東が横綱に届かなかった理由は、常に安定して勝ち続ける一方で、爆発的な強さを出せなかったことではないでしょうか?
そして彼もまた、慢性的な怪我を抱えながら土俵に立ち続けていたことも、昇進への流れを断ち切る要因となってしまいました。
昇進条件厳格化の被害者小錦
今回のテーマ「横綱に最も近づいた力士」としては、小錦の存在を外すことはできないでしょう。
体重200キロを超える巨体、圧倒的な馬力、組んだ時の安定感など、全盛期の小錦は、当たった瞬間に相手を捕まえ土俵外へ運び出す、まさに“横綱相撲”の相撲を取っていました。大関として3回の優勝も経験し、成績だけを見れば横綱昇進が現実的に語られても不思議ではない存在でした。
特に、平成3年から平成4年前半にかけての小錦の安定感は素晴らしく、3場所合計38勝、優勝2回という成績は今見直しても横綱推挙されてもおかしくない成績でした。
しかし、小錦は横綱にはなれませんでした。その理由として、当時繰り返し語られたのが「体が大きすぎる」「横綱の品格に欠けるのではないか」といった、相撲内容とは別次元の評価でした。今振り返れば、これは明確に時代の壁だったと言えるでしょう。外国出身力士が横綱になること自体が、まだ完全には受け入れられていなかった時代、小錦は最前線で戦っていたのです。
もし小錦が、朝青龍や白鵬の時代に土俵に立っていたらどうだったでしょうか。
小錦は「横綱の昇進条件に一石を投じた存在」だったのかもしれません。
“手をいっぱい伸ばしたけれど届かなかった”大関
元大関・貴景勝もまた、このテーマに欠かせない「横綱に近づいた力士」でしょう。
魁皇に次ぐ、大関以下では歴代2位となる幕内最高優勝4回を果たした実力を誇り、押し相撲を武器に土俵を制した貴景勝は、日本人力士の代表格として多くのファンに愛されました。
相撲に対しての真摯な姿勢に加え、強烈な突きと押し、いなしの技術と勝負勘。これらすべて高く評価され、「突き押し一本で横綱昇進した力士」を目指しましたが、あと一歩横綱には届きませんでした。
その背景には、度重なる怪我や故障があり、特に首の状態など、身体的な制約が重くのしかかったことは、引退会見でも率直に語られています。
引退会見で貴景勝が口にした「横綱を目指し、手をいっぱい伸ばしたんですけど、届きませんでした」という言葉は、彼が横綱昇進に向けて全力で挑み、苦闘し続けた証でもあります。願いに届かなかった無念さと同時に、悔いのない相撲人生を歩んだという誇りが感じられる、印象深いコメントでした。
「手を伸ばしたけれど届かなかった」という言葉は、横綱という存在がいかに高く、そして遠いものであるかを雄弁に物語っています。
時代が横綱を求める
ということで、今回は「横綱に最も近づいた力士」というテーマで書かせて頂きました。
横綱昇進の条件は、2場所連続優勝か、それに準ずる成績と明記がありますが、時々ここでも出している「時代の空気感」という表現、これも横綱昇進には深く関わってきていると思います。
前述した小錦のケースなどは正にそれで、「外国籍の力士が国技の最高位になるなんて、、」「あの身体で土俵入りなんて、、、」そんな時代の空気があの時は確実にありました。
逆に昨年の豊昇龍の昇進は、「横綱が欲しい」という相撲協会の想いや空気感がこちらも確実にありました。
しかしその時代に大関を張っているのも本人の宿命です。結局何かを持っていた力士と、何かが足りなかった力士に分かれるということなのでしょう、、、
今回は大関として複数優勝を飾っている大関を対象にしてみましたが、若島津に関しては、リアルタイムでその現役を見ていないので、何とも言えない為外させて頂きましたが、たしかに昭和54年の成績はあと一歩という数字だと思います。
いよいよ春場所は安青錦が横綱昇進を目指します。
数字だけでもなく、一瞬の爆発力だけでもなく、怪我をしない身体、重圧に耐える精神力、そして土俵に立ち続ける勇気や覚悟など、その全てが噛み合った時に初めて横綱は誕生します。安青錦が、その瞬間を迎えることに期待をして春場所を待ちたいと思います。
