相撲の公傷制度はなぜなくなったのか?

公傷制度復活への声

初場所、約2年ぶりの優勝を飾り春場所に綱取りをかけて臨んだ貴景勝。

しかし、3日目の正代戦で膝を痛めてしまい4日目から無念の休場となってしまい、夏場所は一転、角番大関として迎えることになりました。

横綱目前に迫っていた状況から、今回の怪我によって大関陥落の可能性まで出て来ている貴景勝。

春巡業も休み治療に専念しているようですが、あれだけ相撲と真摯に向き合っているにも関わらず、まさに好事魔多しとしか言いようがなく、今回の怪我で改めて「公傷制度」の声も出て来ています。

若い相撲ファンの中には知らない方もいるかもしれませんが、かつて大相撲にあった「公傷制度」。

いったいいつから廃止されたのか?なぜ廃止になってしまったのか?そしてそもそも「公傷制度」とはどんな仕組みの制度なのか?

今回は公傷制度の歴史や、復活の可能性について語っていきたいと思います。

公傷制度ってなに?

まずは「公傷制度」について簡単にご説明したいと思います。

公傷制度とは、「相撲協会から認められた怪我であれば、特別に配慮するので次の場所の番付は1場所に限りそのままですよ」という制度です。(個人的な言い回しではありますが)

前頭4枚目の阿武咲が9日目から休場した春場所の例で説明したいと思います。

春場所の阿武咲の最終的な成績は「4勝5敗6休」でした。6休ではありますが、実質「7」の負け越しになるので、恐らく夏場所の番付を前頭11枚目~12枚目辺りに落とすことになるでしょう。

もし、そこで阿武咲が「怪我をしっかり治そう」と夏場所も休場したとすると、名古屋場所では十両への陥落が決定的になってしまいます。

また、千秋楽を休場した若隆景が、こちらも「夏場所は無理せずに休もう」と考えて休場した場合、名古屋場所の番付は幕尻辺りまで大きく落とすことになります。

ここでかつて存在した「公傷制度」が適用された場合、両力士が夏場所を全休したとしても、名古屋場所の番付はそのまま据え置かれることになり、阿武咲は前頭11枚目~12枚目の地位、若隆景も夏場所の番付の地位で名古屋場所を迎えることが出来ます。

幕内で長く相撲をとっている力士にとって、「怪我が完治する」ということは正直難しいのかもしれませんが、「土俵に上がれる状態でないにも関わらず強行出場するケース」を少なからず見かけます。そして、最悪の場合はより悪化させ、力士生命を縮めることになってしまう可能性さえあります。

公傷制度は、特に「気持ちの強い力士」にとっては必要性の高い処置であり、最近は復活を望む声も増えてきたように思えます。

 

 

公傷制度の始まり

ここまで読んで頂き、特に推し力士が怪我で苦しんでいる方は、「そんなに素晴らしい制度なのに、いつから、なぜ廃止になったのか?」と思われたでしょう。

それではここで、少し公傷制度の歴史について見てみましょう。

大相撲の公傷制度が始まったのは、今から約50年前の昭和47年(1972年)初場所。

かつて、大相撲の本場所は年に2~3回の開催だったため、力士も怪我を治す期間が長く、公傷制度というものが話題になることもなかったようですが、昭和33年(1958年)に現在の年6場所制になると、治療する期間も短くなったことで怪我が番付に影響を及ぼすようになってきました。

 

 

そんな中、公傷制度が出来るきっかけになったのが、元小結龍虎のアキレス腱断裂による休場だと言われています。

1971年九州場所、当時前頭4枚目だった龍虎は6日目の義ノ花戦で左アキレス腱を断裂して途中休場。

結果的に龍虎は3場所連続休場となり、復帰した翌年名古屋場所の番付を幕下42枚目まで下げることとなってしまいました。

公傷制度のきっかけは他にも諸説あり、正式に龍虎の怪我が原因ではないですが、翌年から開始になった「公傷制度」なだけに、この事件が制度成立の大きな引き金になったことは確かなようです。

適用範囲が広がる公傷制度

1972年に開始された公傷制度ですが、「土俵で立ち上がれたら公傷にはしない」「古傷の再発は公傷にしない」と言われていたり、対象の取組を担当した審判5人が同意して作られる「現認証明書」と医師の診断書を用意して、公傷認定委員の協議で適用を決めるといったもので、当初はかなり適用基準が厳しいものでした。

ちなみに、当時はすでに大関に「2場所負け越しでの陥落」ルールがあったため公傷制度の適用はされておらず、制度成立から10年以上が経過した1983年、ようやく大関も公傷制度の対象となりました。

 

 

適用基準の厳しかった公傷制度ですが、平成になると「全治2カ月以上の診断書があれば適用される」と言われるほど、緩和され顕著に休場力士が増加するようになりました。(若貴時代から相撲を見るようになった私も、公傷制度と言えばこちらの印象が強いです)

この引き金になったのは、平成4年九州場所で大関陥落の懸かった霧島が、取組で怪我を負ったにも関わらず、審判部から「歩いて帰った」とクレームが付いて現認証明書を作成しなかった出来事です。

当初、現認証明書の作成は当日のみ有効でしたが、この出来事によって3日以内となり、より書類が揃え易くなったため公傷制度を適用して全休する力士が増加しました。横綱不在の当時、日本人最高番付だった霧島に対して相撲ファンは同情的であり、世論に押された結果が公傷制度の緩和化に繋がったのは何とも言い難いことです。。。

公傷制度ついに廃止へ・・・

こうして徐々に緩和された公傷制度、平成初期の本場所は毎場所誰かしらが公傷で全休していたような状態でした。

特にひどかったのが、2002年の名古屋場所。私も覚えていますが、16名の関取が休場をし(公傷外も含む)、土俵入りが隙間だらけだった記憶があり、コロナ化で多数休場力士が出た際、その時の光景を思い出しました。

そんな公傷制度の乱発に危機意識を持った当時の北の湖理事長が、2003年の九州場所をもって公傷制度を廃止します(その際関取の定員を増員)。

この年、公傷を巡って親方間で色々と揉めていた記憶がありますが、そろそろ制度的に見直す時期だったのかもしれません。

紆余曲折を経て廃止となった公傷制度ですが、いわゆる「仮病力士」が減って健全な土俵の復活には繋がらず、むしろ無理をして出場する力士の増加に繋がってしまった節があります。特に角番大関陣が毎場所苦しんでいる時などは、必ず公傷制度の復活が話題に上るものです。

最近の力士は昔の力士に比べて真面目なので、明らかに無理をして出場している力士が多く、痛々しい姿を見るたび、個人的には「公傷制度」の復活を望む思いはあります。

しかしその一方で、「どこまでを公傷と認めるか?」という問題もあり、そこが非常に難しい部分になってきます。

ベテランになれば、古傷の1つや2つ抱えている力士も珍しくないので、今回の怪我が再発なのか?そうでないのか?の判断も難しくなってきます。

力士の大型化が言われる中、そして何より「相撲離れ」が顕著な今、公傷制度を改定して復活させることも考えていかなければいけません。

有名選手が1年間怪我で休んだ結果無給になり、下積みから再出発するプロの競技を私は知りません。

相撲診療所なり同じ診療所で一律受診するのか?力士の怪我の状態をビックデータで管理するのか?何かしらの処置をとった方が良いのではないでしょうか?

土俵の怪我は土俵では治らないと思います。。。。

 

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そう言えば昔、本場所を休場してハワイでサーフィンしていた横綱がいましたね(笑)

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